大阪市天王寺駅、阿倍野橋駅の司法書士 榊原秀剛司法書士/社会福祉士事務所 > ブログ > 人間の力を超えた何か

人間の力を超えた何か


宗教に関する読売新聞の世論調査で「自然のなかに人間の力を超えた何かを感じることがある」と答えた人が56%にのぼったと2008年5月31日付けの読売新聞「編集手帳」が報じていました。その数を多いと感じるのか少ないと感じるのかは別にして、私には、抵抗なくそう思えます。

20歳代の頃から始めた夏山登山では、朝に弱い私も、山小屋では早起きをして、ご来迎を見にゆくときがあります。暗闇が徐々に薄れてゆき、やがて山の端が輝きだして太陽が新鮮な光を放ってきます。谷を伝って下のほうから清らかな風が吹きわたります。そんな時、私は自然と頭を垂れ、太陽に向かって手を合わせてしまいます。
仏教に「日想観」(じっそうかん)という一種の瞑想法があります。宇治平等院住職神居文彰氏によると「心を静めてその落日をゆっくりと観て、沈みきった後もその姿を明瞭に見ているかのように観想すること」と解説されています。
秋分の日の夕刻には、大阪市天王寺区の和宗総本山四天王寺では毎年、この修行が執り行われ、大勢の参拝者が同寺の西方へ沈む夕日に向かって手を合わせるといいます。この修行は、かつて同寺以西に難波の海が広がっていた時代に、西門から望む光景が極楽浄土へ続く入り口として信仰されたことに由来する修行と大阪日日新聞の2005年9月24日の記事には見られます。
少し黒味がかって、赤く輝きながら海に沈むその落日の消えゆく先に、古来、人は何を観てきたのでしょうか。そっと手を合わせてしまうその先には何を感じてきたのでしょうか?

先日、関西学院大学神学部教授窪寺俊之氏のお話を聴く機会を得ました。氏は淀川キリスト教病院でチャプレンもされていた牧師で、末期の癌などで死に臨んだ患者さんとの交流など多くの考えさせられるお話を聴かせていただきました。
死はもちろんのこと、病や別離など人生の危機に遭遇すると、人は誰しも、自分を超える何かを求めようとするらしい。それは、現前に現れた危難により、今までよって立ってきた土台が崩れ去り、価値観や自己の喪失という混乱のなかで起こるとされていました。今までひたすら地位、権力、金を求め続けて生きてきた人が、まさしく死に臨んで入信し、安らかに旅立ってゆかれる例が多々あるとのことでした。
沈みゆく落日の先に、自己を超えた永遠のものを観るように、滅びゆく自己を超えた世界を信じることによって人は究極、救われるような気がします。

ところが、この濁世においては、人間のこういった一種の弱さに付け込んで、オウム真理教はもちろんのこと、変な宗教や占いがはびこって、ぶくぶく肥え太っています。一人暮らしのお年寄りに変な壺を売りつけたり、近頃は少し見なくなりましたが、視聴率がとれるからということでテレビ局も持てはやしていた女性占い師などまさしく唾棄すべきものと私などは思ってしまいます。
永遠の世界に入る前のことは、この世の定めで、しっかり見極めたいと思っています。



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